吸血鬼伝説
ある閑静なアパートの一室。
部屋の隅には桐の木でできた高級そうな箱があった。
桐でできているからといってタンスではない。
それは平べったく、五角形を引き伸ばしたような形をしている。
カタコンベに最も相応しいと思われる。
箱は西洋の棺桶だった。
中に入っているものは死体なのか。
それとも別の、人ではない人が入っているのか。
棺桶には大きく、分厚く、頑丈そうな蓋がついていた。
中に入っている者が敬虔なクリスチャンなのか、蓋には豪華な十字架が描かれている。
しかし、側面に押された「田中桐箪笥店(有)」の焼き付けが棺桶をチープなものに変えてしまっている。
―――吸血鬼伝説――――
夏の夜は遅い。
世界に夜の帳がおりるのは夜7:30をまわったくらいだ。
太陽の昼が人間の世界なら月の夜は人外の世界。
闇に包まれた部屋で今、棺桶の蓋が開こうとしていた。
中には一人の男が眠っている。
永遠の貴族。
夜の支配者。
血をすする鬼。
最強の怪物。
じりりりりりりりっりりりりりりりっりりりりりりりりいいっりりりりりいいいいぃぃぃぃん…
目覚まし時計が大きな音をだした。
狭い棺桶の中に目覚し時計を入れているのか?
人が一人入れば他の物は入らないほど小さい棺桶。
その中に時計を入れる必要があるのか。
バン!バン!バン!
…どうやら目覚まし時計を止めようとしてるらしい。
棺桶は狭いのに、なぜ手が当たらない。
その前にお前はどこを叩いているのだ。
チン!
なんとか止まったようだ。
大きなあくびが聞こえる。
中から出てきた長身の男は眠たい目をこすっていた。
180近い背丈と黒豹を思わせるすらりとした体つき。
伊達男だが、どこかおかしい。
スーツ姿だ。
そのままの姿で寝ていたのかシワがいっぱいついている。
こすっている手を眼からのけた。
血管が浮き出るほど青白い顔。
美しい瞳は邪悪な朱色。
血のように赤い唇。
異常に発達した犬歯は獲物を捕らえて離さないように進化したのか。
吐く息は北海の冷たさで空気を凍えさせる。
しかし、鬼気や妖気、殺気は微塵も感じられない。
名前を葛葉誠。
昼は寝て夜は警備員の仕事をしている。
吸血鬼独特の体質を、この男は御先祖様以上に上手に使いこなしている。
葛葉はスーツの内ポケットから携帯電話を出すと、ある番号を押した。
「あの、すいません。
ちょっと出勤遅れるかもしれません。
はい、はい。すいません。失礼します。」
とても頭の低い男だ。
この男、吸血鬼としての威厳はまるでないのか。
「何にするかな、朝飯。」
冷蔵庫を開ける。
中には小さなビニールのパックが目一杯詰まっている。
パックは全て赤い色の液体が入っている。
血だ。
するとパックは輸血用の血液か。
ありとあらゆる種類の血液が冷蔵庫に揃えられていた。
一体どういう経路でこれほど大量の血液を手に入れたのか。
普通の職業ならばまず血液を何に使用するか尋ねられるだろう。
無造作にパックを1個取り出すと底の部分を見た。
汚い字で
「賞味期限:00218」
と書いてある。
「2000年って去年か。駄目だ。捨てよう。」
ゴミ箱に投げ捨てる。
パックは外れて壁に当たり、中身を全て吐き出した。
「あーあ・・・。仕方ないなぁ。」
雑巾を引っ掴み床に染み込もうとしている血を拭いた。
血の染み込んだ雑巾を台所に置くと、用意してあったカバンをもって夜の街に出た。
結局、朝御飯は食べなかった。
――――――吸血鬼伝説―――――――
葛葉は走っていた。
青白い顔を白蝋のようにさせ、荒い息を吐いている。
自分が狼やコウモリ、霧に姿を変えられる事を彼はすっかり忘れている。
時間に縛られた人間社会の構造が彼から血塗られた黒魔術や暗黒の特技をすっかり忘れさせた。
今、頭にあるのは仕事へ急いで行くことだ。
「ゼーハー、ゼーハー、ゴホッゴッ」
つばが咽に詰まったのか咳き込んで今にも死にそうだ。
いや、死んでるのか。
町の中央に位置する大きなビルの裏口に駆け込んだ。
その勢いを殺さずにロッカーへ走り、一瞬にして警備服――制服――に着替える。
ビル内へと通ずるドアを開けると、真っ暗な廊下に非常灯の明かりがボンヤリと光っている。
暗闇こそが闇の王、吸血鬼の得意なフィールドだった。
「暗い…お化けが出そうだ…。」
彼の頭の中に昨日のテレビ番組がフラッシュバックした。
「怪奇!心霊スポットに潜入。次々とクルーを襲う幽霊の正体とは!」
とかいうよくある手の番組だ。
彼は怖がりなくせにこういう番組が好きでいつも欠かさず見ている。
それで、寝つけなくて次の日の晩まで起きてる事が何回かあった。
しばらく闇の奥を見つめていたが、意を決しておっかなびっくり歩き始めた。
「あるー日、森の中、熊さんに、出会った。」
歌を歌っている。
声が震えてしまっていて音程がおかしく聞こえる。
さらに、大きな声を出すので音が反響して暗い廊下に一種独特の空間を作り出している。
それほど怖いらしい。
怖いならガードマン辞めればいいのに。
何か声がした。
歌が止まる。
暗闇と静寂が残った。
唇まで蒼白になった吸血鬼――はじめて見た――は恐怖で動けないでいた。
再び声がした。
しかも自分を呼ぶ声だ。
緊張は最高に達し、自然と声が出た。
「バ!バケモノーー!!」
自分はどうなのか。
振り向くと、暗闇の中に女の顔が浮かんでいた。
「ギャーーー!!」
余りの恐怖に動く事ができない。
彼はその場にうずくまって何かを唱え始めた。
「神様、神様、仏様〜、どうか助けてくださいぃぃぃ。」
「ちょっ、ちょっと、私よ葛葉くん。」
「え?」
見上げるとロングヘアーの美人がライトを持って立っている。
金色の長い髪に白人の面影があるハーフ特有の顔。
引き締まった体を包む飾り気の無い制服がよりいっそう美しさを引き立たせている。
制服の張っている胸の部分には「ロスフィール・M・レナ」の名札。
彼女のどれをとっても一流のモデルと対等に張り合えるだろう。
ちなみに彼女や同僚、友人には自分が吸血鬼だという事は伏せてある。
「レナさん…おどかしっこ無しですよぉ。本当に怖かったんですから。」
「はは、ごめんごめん。
でもこんなに怖がるとは思ってもみなかったわ。
吸血鬼も案外臆病なのね。
ね、心臓麻痺とかならないの?」
なんてことを聞く女だ。
顔は美女だが性格と行動原理がねじ曲がっていると評判だ。
少しモデルをしてるからといってプライドが高いのも困りものだ。
だから美人は嫌いなんだ。
そんなことより…
「そんなことより、なぜ1階にレナさんが?
今日は25階より上が担当なんじゃないんですか?」
「うん、そうなんだけどね。何かいる気がして気持ち悪くて下におりてきたの。」
そもそもこのビルはバブルがはじける以前――高度経済成長時代に作られたものだ。
その後、同時代に作られたビルの大半が壊された後も改修を繰り返して今に至っている。
建設当時は10階だった煉瓦造りのモダンなビルが、いろいろあって結果的に45階の高層ビルとなった。
そのビルの管理をしているのがウチの「日本春山警備会社」というわけだ。
「へえ、レナさんにも人並みの感情があったんだ。」
言葉を言い終わる前に頬が鳴った。
暗い廊下に乾いた音がこだました。
「葛葉君、いい子だからそんなこと言わない。ね。」
「はい。」
「さ、上の階を見に行くわよ。もちろんついて来るわよね。」
「そんな…俺まだ自分の区域見回りに行ってないんですよ。それなのにレナさんについて行ったりしたら上に叱られますよ。」
「大丈夫。もし職を失っても私のヒモとして生活させてあげるからね。」
「え…あの…」
「じゃ、問題も解決した事だから上に行きましょ。」
レナは何か言いたそうな葛葉の言葉を無視してフロアの奥、従業員専用エレベーターの方へ歩いていく。
その後ろを恨めしそうな顔をした葛葉がついていく。